少し前のブログでさらりと『越えられない壁』という表現をしたものの、
なんだか自分の中でどうしてもこの『壁』が気になり出しまして。
そのブログ記事では、私の尊敬する方と私との間に表現力で越えられない壁がある…という使い方だったものの
越えられない壁って、慣用句としてはもうメジャーじゃないですか
てことは、一般的にそう感じることが多々あるのだと思います
師匠と弟子の間であったり、親子間、兄弟姉妹間…
友人、上司部下、恋人、夫婦間にもきっとあるでしょう
生まれた場所も年代も環境も…
バックボーン全てが同じ人間なんてこの世に一人として存在しない以上、違う人間が二人以上関わるときにお互いがお互いの違い、それがネガティブな意味だけでなく憧れなどポジティブな意味でも壁として存在しているのではと私は思うのですが…
壁を感じない方が寧ろおかしいと。
違いを知ることで自分は他者とは違う存在であることを知り
他者を認識することで初めてここに自分という存在があること
それに気付けることで客観的に自分を見つめようと思えるのでは…なんて考えたりしてるわけです。
ただ、
自分でそう表現しておきながら身勝手なものですが
『越えられない壁』なんてもの、本当にあるのかな?とふと思いまして。
先のブログで私は『どうやったってあの人に敵わない表現力の差』を『越えられない壁』として使ったのですが
単に技術や能力の差だけでなく、実に様々な意味で『越えられない壁』は使われますよね
でも、どんな意味だとしても、本当に越えられない壁なんてあるのかな?
そんなことを仕事してるふりして考えてました。
突然ですが。
中学の時、吹奏楽部のサックスパートで大変お世話になったひとつ上の先輩が私は大好きでした。
先輩のことも先輩が奏でるサックスの音色も大好きで、先輩の補佐役パートだった私はおんぼろのアルトサックスで先輩の足を引っ張りたくなくて、何とか先輩の音に近づきたくて、毎日楽譜と向かい合っていたのを今でも覚えています
そしてある時、空き教室で一人練習していると『○○さん(先輩)かと思ったら小野崎だったのね!びっくりした、おんなじ音なんだもん!』
そう当時の部長が声をかけて下さり、その時のその言葉が嬉しくて嬉しくて…
先輩が引退されてからも私に頑張る力をくれました
当時の私にとっての越えられない壁であり目標であり憧れだった先輩の音色、その音にもしかしたら私は本当に近づけていたのかもしれません
けれど、私にとって先輩という存在はある意味ゴールであり、ゴールのその先…その先輩を越えるなんて考えたことは一度としてありませんでした
今思うと、先輩の音色に近づけていても私の音色はずっと先輩という壁の手前で止まっていたのです
それは先輩の存在が偉大だということだけでなく、私の実力も勿論あったのでしょうが
いちばんは壁を越えようとしていなかったからだと今になって思うんです。
鎖で繋がれ慣らされた象のように、当時の私は自分で勝手に自分の限界を決めていたのだろうと…
部屋に残る楽譜を見ながら、ふとそんなことを考え
今の私をどこかで見ている当時の私に『お前はその歳になってもまだおんなじことの繰り返しなのか!?』と檄を飛ばされているような…不思議な気付きでした。
だから、
もしも、
壁を作っているのが自分自身だとするなら、
どんな壁だってぶつかってやろうと。
そんな事を自分自身に語りかけた1日でありました。
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壁
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