修理期間中にお店にお越し頂いたお客様には三代目の案内で実物を見て頂いた方もいらっしゃるかと思いますが
昨年10月末から年末にかけて
日光山輪王寺様所有の長胴太鼓(宮太鼓)の革両面張り替えと鋲・菊座の修理を三代目が行いました
小野崎太鼓店として、何年かに一度は歴史ある太鼓を修理させて頂く機会があり
今回輪王寺様の方からも掲載の許可を頂けたので三代目が行った仕事をご紹介します
日光山輪王寺といえば世界遺産である二社一寺のひとつ
1000年を優に越える歴史を持つ、日光山全てを統べる大変格式高い天台宗の寺院です
修理依頼を頂き、平成25年10月末輪王寺様より長胴太鼓を預かり対面
口径84.1cm胴径98.2cm丈93.0cmの立派な太鼓です
修理施工前は、片面の革が破れ、もう片面の革はゆるんでいる状態で
また、革を固定する鋲・菊座の間隔が通常のものよりもかなり広く打ってあった為、革下は捲れていました
更にこの鋲・菊座も太鼓の胴に負けないくらいの歴史ある物らしくかなりの磨耗が見受けられましたが
輪王寺様のご希望としては、今回の修理でもこの鋲・菊座は出来る限り再生・継続して利用して欲しいとの事で
それでも足りない部分は新調することになりました
いよいよ修理施工開始です
太鼓本体より鋲を抜き菊座を外し
楽器というよりも神聖な仏具としての役割の為か通常張り替えの依頼を受ける和太鼓よりもかなり長い間…恐らく何十年と頑張ってきたであろう革を丁寧に外します
磨耗の激しい鋲・菊座を再生・整形させながら
新たな鋲・菊座の製作
そして、太鼓職人ならば誰もがしている事ですが、胴内を見て銘文の調査をします
通常皆様の目に触れることのない胴の内側には
太鼓を製出した職人の名前
製出年月日
そしてその職人が属する太鼓店の名前が墨書で記されており
また、歴代の修理の記録も同じように事細かに記されているのです
当然歴史のあるものであればあるほどこの銘文は増えていき、バトンが受け継がれてきた軌跡が見え
和太鼓が、そしてこの仕事が、いかに沢山の職人の手によって現代まで引き継がれてきたのがわかります
今回お預かりした輪王寺様の長胴太鼓も、沢山の職人の手によってその歴史が守られてきたようで
その中に、小野崎太鼓店の銘文を見つけて驚きました
昭 和 九 年 四 月 三 日
宇 都 宮 傳 馬 町
小 野 崎 弥 八 張 替
戦前の宇都宮でこの銘文を記したのは恐らく先々代の小野崎武光であったと思われるのですが
三代目いわく、創業者の名前を遺したかったのではないか、と。
80年近くの時を超えて、先々代のバトンを孫の三代目が引き継ぎ
また数十年後へのバトンを託す
言葉では言い表せないような大変に重みのある仕事をしているということが、この歴史ある長胴太鼓から放たれる重厚感と共に改めて感じられます
中でも一際薄くぼやけてしまっている文字を素人判断で読もうとすると
『慶安五年』と記されているような。。。
その先は
京 三 ○ ○ ○ 村
太 鼓 屋
天 下 一 ○ 村 理 ○ ○ ○ ○
同 ○ ○ ○ ○ ○
同 ○ ○ ○ ○ ○
読解にはさすがに限界があり、それでも家族総出で銘文とにらみ合いを続け
そして1週間ほど経った頃
ふと三代目が、以前頂いたお手紙の存在を思い出しました
宇都宮から遠く離れた九州大学院で比較社会文化研究員長を勤めてらっしゃるという先生からの手紙の中に、今回お預かりした輪王寺様の長胴太鼓の銘文によく似た文字を見たような記憶があった三代目
山積みの文献や頂いた手紙の中からそのお手紙を探しだし、改めて読み返してみます
するとそこには
『江戸時代初期には京三條天辺村・橋村理兵衛(または理右衛門)、あるいは摂津渡邊村又兵衛の太鼓店にて製作・張り替えされたものが多く・・・』
手紙を片手に、もう一度胴内を見てみると言われて見ればそこには確かに
京 三 條 天 辺 村
太 鼓 屋
天 下 一 橋 村 理 兵 衛
そう読めるのです
慌てて手紙の差出人である九州大学院の服部英雄先生に連絡を取り、
同時に、輪王寺様に古い文字を読める方がいらっしゃるとの事でその方のご協力のもと、胴内銘文の調査が進んで行きました
後半につづく
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日光山輪王寺様の太鼓を修理させて頂きました・前編
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